ドール哲学【14】:高坂 穂乃果

同情哲学に対する補足説明になります。
今回の主題は「同情するためのアナロジー倫理学と厭世哲学に対するニーチェ哲学」です。

「盲目的な生きんとする意志」を中心に置いた同情哲学ですが、個人的には好きですが、そのままでは大きな欠陥があります。なぜなら、世界は意志の元に同一という結論から導きだされる内容は、石と木と動物と人間と同じ価値として見なすという奇怪な倫理感なのです。そのことを理解していた彼は「意志の客観化」という言葉を元に順位をつけようとしたのですが、それは物自体からの決別を意味していました。

また他の意志を阻害しないことを主眼に置いた正義感から導き出される内容は、他人へ迷惑をかけない自己否定へと進むことになります。事実、後期ショーペンハウエルは我欲からの解脱を説いた仏陀や仏教へ歩むことになりました。ここに厭世哲学者としての顔があります。

前者の欠点に関しては「アナロジー(類似性)の倫理学」を用いることを提案したのが、大学時代の卒業論文でした。人は自分に似ているもの、自分に近いものから、倫理的順位を決定するのです。人間の倫理観なので、犬よりも人の方が倫理的に尊重されます。また肉親が亡くなれば悲しむが、遠い地球の裏側で名も知らない人が死んでも悲しまないのです。それでも他の物質に対して同情を行うことに対して、人間の役に立つからというだけの自然保護観点ではない道筋を示しました。

後者の欠点に関しては「ニーチェ哲学」を用いました。生きんとする意志を否定するのではなく、どこまでも肯定する姿は力強く、まさに「生の哲学」といえるでしょう。「左の頬を殴られたら、右の頬を差し出しなさい」とするキリスト教倫理観に対して、「殴り返すことが『出来ない』ということを『しない』とする卑怯者だ」とし、今までの倫理観を覆しました。しかし時に強すぎる力は破滅をもたらすのも、戦争が教えた事実です。私たちは偏ることなく、両方の価値観を持つ必要があります。

といいながら、哲学は生き方を述べる学問ではありません。哲学は「至極当然なこと」を語る学問です。世界が「盲目的な生きんとする意志」であったとしても、どのように個人が生きるかは無関係です。ただ知り、理解するだけの学問なのです。

次回はドール哲学のまとめ及び後書きです。


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Category: ラブライブ!
Published on: Thu,  19 2015 19:11
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