ドール哲学【12】:高坂 穂乃果

もう少しで結論なので、お付き合い願います。
今回の主題は「盲目的な生きんとする意志の性質の説明」です。

「人は認識できないが、確かに存在する『物自体(英:thing-in-itself)』は実在する」としたカント哲学を全面的に受け継いだショーペンハウエルは、矛盾しているのを承知の上で、物自体の認識に挑戦します。思考停止した時点で哲学はその歩みを止めてしまいます。私たちは、どんな時でも覚えておかないといけないのです。ソクラテスの「無知の知」を。私たちが全てを知るには、人類史上、もっと先の話であり、それは、あたかも限りなく近づくことはできるが、決して到達できないとした「アキレスと亀」のようなものです。

彼は物自体を「意志(ドイツ語:wille)」として捉えます。これから「意志」という単語を多用しますが、ここで活用する「意志」とは日常生活で使用している意味「成し遂げようとする心」ではありません。哲学は言葉遊びであり、認識は言語によって初めて生まれます。ドイツ語から日本語へ翻訳した時点で概念は変化してしまうため、大学で哲学を始める場合、その哲学者の母国語を習得するのです。

まず彼は物自体を「時間と空間に囚われない、普遍的なもの」と定義しました。これは「正しい認識とは時間と空間つまり『因果律』を通じたものである」としたカントの言葉を逆説的に捉えたのである。時間と空間の外、原因と結果という因果律の外にあるもの『個体化の原理』を超えたものが「物自体」と捉えたのです。時間も空間もないわけですから、個体としての認識もできないもの、それが『物自体』の正体としたのです。人の認識を超えた世界とは、空間も時間もなく、ただ存在があるだけ。鋼の錬金術師の言葉を借りれば、「一は全であり、全は一である」のである。ただし作中で「真理」として登場する『物自体』は、絵という表現方法から、どうしても個体として描かれてはいましたが。

そんな『物自体』に彼はさらに「動的性質」を与えたのです。物自体は何らしかの方法性を持った動きである。そう思った理由は直観であり、彼の願望であったと推測されます。合理的にいえば、空間も時間もないわけですから、動きという動作すら起こりえないはずなのですが(哲学者ゼノンのパラドックス説)、私たち観測者としては世界が止まっていると直感できないし、私たち観測者が世界を経験的に見る場合でも、全ての事象は変化し続けている。確かに理由もなく内側から湧き出る何かを彼は直観した。それこそが「盲目的な生きんとする意志」なのである。

ここに「生の哲学者」の姿があります。ただし、この場合の「生」とは「生命」ではありません。「生」とは普遍的に広がる「動的な流れ」であり、それは人間から石ころ一つ、果てには重力といった自然法則を含む概念です。だからこそ彼は「生命」ではなく「意志」と表現したのです。そして万物に宿り、理由もなく動き続ける「盲目的な生きんとする意志」を感じることこそ、はじめて「人はなぜドールを愛するのか?」という確信に触れることができます。

次回は「盲目的な生きんとする意志」から生まれる倫理学を中心に説明します。


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Category: ラブライブ!
Published on: Tue,  17 2015 19:11
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