ドール哲学【03】:そに子

よく『哲学入門』と言われる内容です。
今回の主題は「哲学とは言葉遊び」です。

「なぜ人はドールを愛するのか?」という事柄に対して反省する、つまり哲学するにあたり、反省するための道具である「言葉」について確認する必要があります。なぜなら基本的に『哲学とは言葉遊び』だからです。ここでは「哲学=反省」としていますが、実際には哲学という言葉自体、様々な意味を持っています。その中で『哲学=言葉(古典ギリシャ語でロゴス:logos)』という意味を充てることがあるのは特筆すべきことです。

私たちは言葉がなければ考えることはできません。考えるにはまず言葉が必要となります。思想=言葉であり、言葉=思想なのです。このように文字で思想を伝えているように、思想とは言葉があって初めて成立するものなのです。それは、あたかも「鶏が先か、卵が先か」という例えのように。

哲学者デカルト「我思う、ゆえに我あり」という言葉は哲学を知らない人でも聞いたことがあるでしょう。思考する自分が認識されるため、そこに自分が存在しているとしていますが、実際はこの内容自体、言葉があって初めて成立するのです。言葉がなければ自分の存在も確立することが出来ないのです。

世界は言葉によって出来ています。これは決して大げさな比喩ではありません。普段あまりにも当然すぎるため、人々は認識すらしていないだけです。言葉があって初めて認識が生まれます。日本人は雨に対して「霧雨」「時雨」「狐の嫁入り」等様々な言葉を持つから、雨という事象に対して、多くの種類を認識することができます。言語が異なれば、見える世界は全く違うのです。

少し難しくなってしまいましたが、つまるところ『哲学とは言葉遊び』なのです。言葉を駆使して哲学を行う以上、普段以上に言葉を意識しなければいけません。哲学者の扱う言葉と一般の言葉と異なるため、哲学は難しい印象を与えてしまうのです。

ちなみに言葉遊びとして哲学者ゼノンの「アキレスと亀のパラドックス」という題材があります。「足の速いアキレスは少し前に進んでいる亀に対して決して追いつくことができない」ということですが、これのパラドックスを説明するのが哲学入門の期末試験でした。内容はまた別の機会にということで、今回はここまで。

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Category: すーぱーそに子
Published on: Sun,  08 2015 17:54
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