カーナビVS自由意志

これは事実に基づくフィクションです。
今回の主題は「旅行は計画的に」です。

「恵那から一宮まで渋滞120分か」
私は大きくため息をついた。

10月の三連休を利用して、妻と二人旅に出た。自宅である愛知県知多群武豊町を朝4時に出発し、片道300㎞の道のりを経て、長野県の黒部ダム・善光寺・野沢温泉とロングドライブを決行。最終目的地に着いた時には、とっぷりと日が暮れていた。さすがに戻る体力の無かったので温泉街で一泊素泊まり。結果として、翌日源泉で茹でた温泉卵やトウモロコシを満喫することが出来た。ノープラン旅行にしては比較的成功だったのではないだろうか、と長野の山脈を見ながら14時頃帰路についた。

カーナビの自宅までの到着予定時刻は18時を示していた。途中で夕飯も取るだろうから、20時までには帰れるだとうと高速道路を駒ヶ岳を横切るところだった。連休最終日ということで、普段よりも車が多いのは分かっていたのだが、ついに夕刻の暗闇の電光掲示板に渋滞の文字が浮かびあがっていた。辛うじて恵那山トンネルは抜けることが出来たものの、中津川IC付近で完全に動かなくなってしまった。どうやら自然渋滞のようだ。

信号もない道で、事故でもないのに、どうして渋滞するのだろうか。その理由は2点あると私は考える。1つ目は無意識の減速だ。全ての車が一定速度で走っていれば渋滞するわけがない。しかし人の足でアクセルを踏んでいる以上、坂道や下り坂で無用の減速が発生してしまう。全車両にオートクルーズを標準装備してくれれば良いのにと常々思う。二つ目はカーナビの存在だ。最適なルートを自動で選んで表示してくれるカーナビは非常に便利なものの、全ての人がカーナビの示したルートを選択してしまうと、交通集中が発生する。スマホが一人一台の時代、紙媒体の地図を持っている人の方が少ないのである。

私は少し考えたものの、その眼前に広がる無数のブレーキランプを見て、ハンドルを出口の方向へ切った。当然必死に元の道へ戻そうとするカーナビの声を無視し、私は次の目的地をセットした。中央自動車道を避け、東海環状自動車道を経由するルートを選んだ。本来なら土岐JCTから流入するのが理想だが、そうは問屋が卸いさない。高速道路の渋滞を避けようとした車で下道も同様に渋滞だ。山道を抜けて、さらに先の「せと赤津IC」を目指した。

車の少ない闇夜の道を走りながら、私は少し優越感に浸っていた。皆の通る道ではなく、自分だけの道を選んだことに楽しく思っていた。それは青春時代に反抗期で家出した感覚に似ている。人に指示されたルートを通るより、自分の道を歩きたいと、若い頃は必至に足掻いていた。

しかし年齢を重ねるにつれて、人は誰かに示して貰った「安定した道」を選ぶようになる。誰もがカーナビの指示通りに車を運転する。「ポケモンGO」というゲームで、レアなポケモンが出没した渋谷で交通規制が入ったというニュースが話題になった。これはゲームによって人の動きですら操作できる象徴だと思う。近い未来、誰もが電子端末の示した人生を歩む世界になると言っても、決して大袈裟ではないだろう。

そんな風な人々をほくそ笑むと同時に、全く逆の思考が湧き出していた。それは「そもそも私に自由意志というものがおおよそ存在していたのだろうか」ということだ。今回ノープランの旅だったとはいえ、事前に本屋でガイドブックを購入している。黒部ダムへ行こうと思ったのも、子供の時に行ったことがあるからだ。善光寺も野沢温泉もガイドブックの紹介が無ければ行っていなかっただろう。

何を思ったのか、私はカーナビを切っていた。もうすぐ高速道路の入り口だし、高速に入ってしまえば間違えようも無い。私の意志で私は行動したい。そんなちっぽけな感情だった。

ところが、である。

高速道路の料金時を抜けた辺りから、優越感はすぐに不安へと変わった。暗闇の中、私が通っている道が正しいかどうかが、誰も判断してくれないのである。私は私自身で判断しなければいけない。私が本当に正しい選択をしたのか。それは私にしか分からない。私は私の判断を機械に任していたため、結局私自身の判断を信じることが出来なくなっていたのだ。

その不安は段々と大きくなる。そして電光掲示板を見た時、不安が確信に変わる。

「土岐から一宮まで渋滞120分か」
私は大きくため息をついた。


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【参考図】
無題
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Category: To loveる ダークネス
Published on: Tue,  11 2016 13:57
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