「布教」という人間欲求について

私たちは「何かを欲する」と同時に「自分を残したい」と考えるようです。
今回の主題は「布教とは自分の生きた証を残すこと」です。

人間は何かを欲する生き物です。その何かは人それぞれで、「食欲・睡眠欲・性欲」の三大欲求の他には、多様なあり方があります。そこに共通することは「何かを欲する」という大前提です。しかし欲するだけが人ではありません。そこには「自分を残したい」という基本原則があります。

そもそも三大欲求「食欲・睡眠欲・性欲」も「自分を残す」という点では共通しています。食欲や睡眠欲は生存のために欠かすことが出来ません。性欲は自分の遺伝子を残すという点では、ズバリ当てはまります。正常な状態であれば、人は自己保存を最優先に考えるものです。生命のあるもので、自ら死に向かうのは人間を除いて存在しません。勿論遺伝子的には死は運命つけられている「アポトーシス」を持っているものの、見方によっては生命の多様性を保持するために設定したとも考えられます。残念ながら自ら死を望むものは人間の他になく、日本での自殺者数は年間三万人ほどに達しています。非常に残念なことです。

それでも私たちは「何かを残したい」と考えます。直接的には「子供を残す」ということになるのでしょうが、それ以外でも「幸せな記憶」であったり、「自分の歩んだ道」であったり、「自分であることの記録」であったりします。誰かに自分のことを伝えたい。私は今ここに生きている。私が居なくなったとしても、私が生きた証を残したい。直接的には「お墓」が挙げられます。私たちはお墓を見ることによって、過去の人の存在を認識することが出来ます。残された人のためであると同時に、それは生前本人の欲求なのです。

ブログを行うということは、ある意味お墓を立てる作業に似ています。私の存在をインターネットという広大な大地に墓標を立てているのです。確かにブログを実名で行ってはいません。それでも私によって生み出された「さつき」という「私」は、私の一部であることに間違いはありません。

こんなエゴの塊のブログに「拍手」という花を添えて頂けると、私が喜ぶわけです。そうして私は「私」を布教するわけです。プロフィールで「見ている人の役に立ちたい」と宣っている私ですが、その実は結局「私」を布教したいだけなのです。

こうして私はまた「ブログ」という名の「私」を更新するために、キーボードを叩くわけです。


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Category: 初音ミク(DIVA版)
Published on: Tue,  20 2016 06:42
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