人の持つ価値は、人それぞれ


前回記事よりの続きです。
今回の主題は「人は何に対しても価値を見出すことが出来る」です。

前回記事の主題は「自分に価値があるものは、他人にとっても価値があるものとは限らない」でした。趣味における普遍的な価値の否定でしたが、逆を言えば「人はどんなモノでも価値を見出すことが出来る」ということです。日本人は遥か昔から、そのことを知っていたそうです。

>『信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ』(万葉集より)

小学校の頃に習った和歌ですが、30歳になった今でも朧気ながら、その存在を覚えていました。百人一首もろくに覚えていない私ですが、その和歌の意味に衝撃を受けたからこそ記憶に残っていたのでしょう。恋人の踏んだ石も宝となり拾ってしまうという情景は、現在から見てしまうと、かなりの変態でストーカーです。それでも古文の響きから来る美しさにより、どういうわけか正当化されてしまうから不思議です。

単なる石でもコレクションにしてしまうほどの日本人の血を引いている私たちが、美少女に模したドールやフィギュアで同じ感覚を得ないはずがありません。多分他の人から見れば、本人の恋人の踏んだ石なんて、ただの石でしかありません。他人に理解できるはずがありません。そんな個人的価値感でさえ、個を超えて共感を持つことが出来たからこそ、万葉集に収録されたと思われます。

石だけでも価値を置くことが出来るのだから、本来お金を掛けなくても趣味に価値を置くことが出来るはずなのです。それが、現代では「趣味=お金をかけるもの」という構図になっています。きっと趣味に対して経済理念が加わった結果だと考えます。消費者からお金を引き出したいという資本家のエゴが偏在しているのです。

「お金を掛けずとも趣味は出来る」。そのことを忘れないようにしたいものです。
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Category: ハナヤマタ
Published on: Tue,  13 2016 22:04
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