「ドールやフィギュア=鑑賞用の壺」という考え方を持とう。

どういうわけか、人は必ず何かを欲する生き物のようです。
今回の主題は「自分に価値があるものは、他人にとっても価値があるものとは限らない」です。

私は趣味であるドールやフィギュアにお金を使う時、いつも「お前はこんな大金を出して不要な壺を買っているのだぞ!無駄使いをしている自覚を持て!」という風に自問しています。壺収集の趣味がある方には失礼で申し訳ありませんが、私にとって壺とは全く持って不要なものです。花を生けるわけでもなし、水を溜めるわけでもなし。今の時代なら壺の代わりをする商品ならいくらでもあります。骨董品などの鑑賞品用途以外では全く使い道がありません。大学時代にアルバイトでリサイクルショップに働いていた時のことです。やはり骨董品の壺の売買もありました。勿論私には壺の価値など分からないので、適当に値段をつけるわけですが、「どうしてこんなものに価値があるのだろうか」と首を傾げていました。重たいし、棚の場所は取る。ふとしたことで壊れてしまうし、価値基準が明確ではない。見る人が見れば価値があるのだろうが、私にはその良さがサッパリ分かりませんでした。

これはドールやフィギュアでも同じです。壺の収集家よりも人数は多いと思われるので、ある程度市民権を得ていますが、それでも興味が無い人に取っては同様です。こんな「着せ替え人形」なんて玩具に、どうして高額な費用を払うのか。全く持って理解が出来ないし、バカがやることだ。そのように思われて当然だと私は考えます。どういうわけか、偶然私の脳みそが「ドールやフィギュア」に対して価値を見出す回路となっており、『ドールを低価格で楽しむ』なんていうブログを続けているだけなのです。何かの拍子で脳みその回路が変われば、私はドールやフィギュアを無価値でつまらないものと判断するでしょう。

この『何かの拍子』というものは、いつ何処で起きるか分かりません。人というのは不思議なもので、「食欲・睡眠欲・性欲」などの欲求以外は実に多様です。ファッションに興味を持つ人もいれば、音楽に興味を持つ人もいる。車好きもいれば、バイク好きもいる。家でダラダラするのが好きな人もいれば、しんどい思いをして山上りをする人もいる。これは「人は何かを欲求する生き物だが、何を欲求するのかは決まっていない」ということです。

そもそも欲求する対象は時間と共に変化していきます。子供の頃はあんなに欲しかった玩具が、大人になったら必要と思わなくなります。確かに子供の頃の趣味が大人まで続くこともありますが、それでも幼児対象の単純な玩具(例えば積み木や幼児向け絵本など)を欲しいとはならないでしょう。きっと成長していく過程の中で、欲求対象が複雑に変化するのでしょう。それは気分によっても変わりますし、それこそ「うつ病」などの精神疾患でも大きく影響を受けます。

趣味を持つことは悪いことではありません。むしろ人生を豊かにするという点では非常に重要なものです。生きるための活動以外(つまり仕事以外)に、別の趣味を持つことは精神疾患にならないためにも必要です。しかし趣味が全てだと考えるのは早計です。あくまで趣味は人生におけるスパイスみたいなもので、それ単体では飽きてしまうのです。今の自分が欲しいと思い、大金を支払おうとしているものは、将来の自分にとって不要なものなのかも知れない。そういった感覚を常に持つことにより、趣味にかかる費用と上手に付き合うことが出来るのです。

だからこそ「ドール(趣味)を低価格で楽しむ」ことをブログの目的としているわけですね。

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Category: ハナヤマタ
Published on: Mon,  12 2016 21:18
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